INORI広場 Blog

この世はスーパーマリオ


前回の記事 の最後にこんなことを書きました。

「問題」を「課題」や「修行」「レッスン」と置き換えると分かりやすいと思うのですが、本当はその課題は生まれ出る前に、自分に課していたものの一つなのですよ。
シナリオを書いておいて自分でそれを忘れているのです。

お客様から、この意味が分からない、という質問を頂きましたので、何か分かりやすい言い回し気はないかなぁ・・・と考えていましたら、以前に読んだ本の中にありました。(-^□^-)
一部を抜粋して紹介したいと思います。

・・・・・・・・・・・

キリスト教に「三位一体」という言葉が出てきます。
「父」と「子」と「聖霊」
これは今までの宗教観だと、父というのは絶対王者である「神様」それが作りたもうた「子」人間がいて、その間に「聖霊」がいる。

でも、これは存在が切り離された別物なのではなく、一つの同じ存在であるというのが「三位一体」の教えです。
「父」と「子」と「聖霊」は、「存在の違い」ではなく「意識の違い」なんです

わかりやすくするために、たとえを「スーパーマリオブラザーズ」に置き換えてお話します。
いわば「任天堂(ゲームクリエイター)」は「父(神)」です。

スクリーンの中にいる「子」は、そのクリエイターが創りたもうた「キャラクター(マリオ)」。
そして残された「聖霊」は、そのゲームを遊ぶ「プレイヤー」としての意識、つまり本来の自分自身です。
今まで人間は自分がゲームの開発者であることを忘れて、また、プレイヤーとしての意識もなくなって、すっかり「マリオ」だと思い込んでいました。
ゲームの世界を現実だと誤認し、キャラクターと自分を重ね合わせてしまっていたのです。
だからこそ、深刻で苦しい人生が展開されることになっていたんです。

自分のことを、マリオだと信じ込んでスーパーマリオをやったとしたら絶対にBダッシュはできませんよ、怖くて。

クリボーをそう軽々踏みつけるれません、逃げ回りますよ。
イカを見ただけでドキッとしますよ。
だって、それに接触するだけで死ぬという脅威がそこにあるわけだから。

僕たちがゲームを楽しめているその理由は、「ゲームをゲームとして認識できているということ、「プレーヤー」としての自覚があるからです。

自分がゲームキャラクターではないという、「それを動かしている者である」自分を知っている自覚です。
いわゆる「悟り」や「目覚め」というのは、ゲームキャラクターからプレーヤーへの意識転換、もしくはゲームキャラクターからクリエイターへの意識転換のことを指しているんです。

今までこれを現実だと思い、自分をある特定のアイデンティティで認識してきたけど、そうか、今まで見てきたのはすべて幻想(バーチャル)だ」という、プレーヤーの視点を持って、そこから人生を楽しむと、ゲームをゲームとして楽しみ出すという人生が生まれます。

ゲームの中の世界を、現実だと認識しているところでは、そこに展開されているのは苦悩でしかありません。
プレーヤーの視点を取り入れたときに初めて苦悩が娯楽になるんです。

「思いどおりにならない」ということが娯楽の前提として成り立っていることに納得することになるんです。
ゲームというのはそもそもストレスのためにあります。
ストレスを楽しんでいるわけでしょ?

すべてが思いどおりになるゲームがあったらおもしろくないし、障害のないゲームなんてゲームといえないでしょ?
ということですから、今の私たちのこのストレスがひどい状態というのは、ゲームとしては最良の状態なわけです。

思いどおりにどうしてならないんだ、というのは、ゲームだからです。
「解脱(げだつ)」とは、もうゲームをやめなよ、を意味しているんです。

そのゲームのソフトを替えようが、何をしようが、どんな遊びだってストレスがつきまとうよ、と。
それが、お釈迦様が残した「人生は苦である」という真理。

「人生は苦である」というのを平たくいうと、「ゲームとは制約だらけである。
元々、思いどおりにはならない。ということが前提なのだから、ストレスがあって当たり前」ということです。

そのストレスが嫌だったら、もうゲームはやめなさい、と。
ところが僕たちは人生というゲームをゲームとして認識していない。
これが現実だと思い込んでいる。
そして、肉体を失って初めて、プレーヤーの視点に戻るんです。

それと同じことが、僕たちの死の瞬間に起こります。
「えっ、あれ?死んだ?でも意識があるということは、きっと体が死んだんだ」ということを理解します。

そこでようやく、我に帰る・・・

「そうだよ、ゲームしてたんだよ」ってハッと気づく。
そこで、たくさん未練が湧き起こってくるんです。
「ちくしょう、ゲームだとわかってたら、あれもしたし、これもしたのに」って。

で、そのタイミングでゲームの画面にはこんなメッセージが現れてます。

「Continue ?」と。
で、カウントダウンが始まります・・・「10、9、8、7・・」と。

その間にコンティニューするかしないか、イエスかノーかを選ぶわけです。
それを選択するときは、すでにキャラクターではなくプレイヤーとしての自覚があるときですから、けっこう軽い気持ちで「イエス」ってしちゃうんですよね。


そして、さまざまな後悔・未練を解消すべく、またゲームを始めます。
※実際にはこんなに簡単に転生は出来ません。
でもゲームが再開されると、やっぱりこのリアリティと面白さ。すっかり世界に巻き込まれて、プレイヤーとしての自覚を失って・・と、同じことの繰り返しなんですね。
これが「輪廻転生」の舞台裏です。
神様というのは「人格の一つ」なのではなくて、分離していない一つの状態、存在のすべてです。
そして、ゲームを開発したのも、遊ぶのもその「存在のすべて」。

そこに、一つの問題が起きたんです。
ゲームを開発した張本人がそのゲームで遊ぼうとすると、ゲームの開発者だからこそ、どうやったらうまくプレイできるか、このあとどんな展開が待っているか、どうすればミッションをクリアできるか、ありとあらゆることを、あらかじめ全部知っちやってるわけです。

裏ワザも何もあったもんじゃないわけです。
そこで神様は、このゲームを存分に楽しめるよう、ゲームの始まりに、あるプログラムを埋み込みました。

それは「記憶喪失プログラム」。

自分がこのゲームの開発者であるという記憶を抹消するプログラムです。
そして僕たちは、プレーヤーであることを忘れて新たにゲームキャラクターとして登場します。

「アセンション」というのは、初めて「プレーヤ-意識」という、新しい自覚を得て、ゲームをゲームとして遊べる意識を思い出すことなのです。

「この世はゲームの世界だったんだからこそ、もっとリラックスしてイキイキ楽しもうよ」というように。
でも、この言葉は、プレーヤーの視点だからこそいえるもので、苦しみの最中にあるキヤラクターの視点からではわかりません。

「情報」ではなく、「理解」が必要なんです。
※「未来は選べる」から抜粋。

関連記事一覧

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

アーカイブ

最近の記事

  1. 2018.09.12

    癒しの店
  2. 2018.07.27

    生まれ変わり

カテゴリー